〈1985年(昭和60年)10月〉 ~ 初めての海外出張 ~
◆「明日アメリカへ行け」◆
私にとっての初めての海外出張はアメリカでした。
アメリカ西海岸、サンフランシスコの隣の「サンノゼ」という街です。ここは半導体関係の会社が集まっているシリコン・バレーという有名なエリアです。
あれは確か昭和60年(1985年)、私がまだ26才で、春に結婚したばかりの新婚ホヤホヤの年の10月でした。
当時、私はまだ入社以来いた千葉県の工場にいて船橋の社宅に住んでいた時期ですが、会社の新型パソコンを発売するに当たり、アメリカの半導体メーカーと新しい半導体を共同開発していました。
しかしそれがバグ(欠陥)だらけでなかなか完成せず、一方では新製品の発売時期は迫ってきます。
ようやくバグを解消出来たと思ったら今度は半導体の納期が間に合わない状況になってしまいました。
で、対策したわけですがアメリカに簡単に行くわけにもいかず、まずはその会社の日本法人のある赤坂に私の当時の上司(課長)が納期短縮交渉に行ってきました。
こちらは上司からの電話連絡がくるのを待っていましたが、夕方5時になっても6時になっても連絡は来ません。不安になりつつ待っていたら夜7時近くにようやく電話がかかってきました。
上司「あ~、Stream君か。この交渉はうまくいかないな。。。」
私 「そうですか。ご苦労様です。」
上司「これはアメリカまで対策に行かないとダメだなあ。」
私 「(上司が行くものと思い)そうかもしれませんね。。。」
上司「stream君はパスポートは持っているのか?」
私 「はい、持っています。」
上司「では明日、アメリカへ対策へ行ってくれ!」
私 「え”~~っ!!」
もう既に夜7時過ぎ。明日行けとは・・・!
私は海外の経験は半年前にハネムーンでグアムに行っただけ。しかも英語は全くだめ!
でも命令では仕方ありません。
しかし流石に航空券が取れないので明日は勘弁してもらいましたが、あさっての昼間には成田空港へ向っていました。
でも冷静に考えたらそのメーカの日本人の営業マンの方は以前IBMのアメリカ本社に勤めていたくらいですから英語はベラベラ。よって2人で行けば何とかなるかと思ったら、、、その方は本当に明日アメリカへ先に行ってしまいあさってにサンフランシスコ空港で私を待っているとのこと。
と言う事はアメリカまでは私1人で行けということか!
もうほとんどヤケクソの心境で成田空港へ到着しました。
これが私の初めての海外出張の始まりでした。
◆成田からサンフランシスコまで◆
成田空港へ到着したのはいいですが、どうしたら良いのか。何と言っても海外はツアーパックでグアムへ行っただけですから。
とりあえずJALのカウンターへ行きチェックインをすますこととしました。
座席はビジネスクラスです。今はうちの会社も全てエコノミーのしかも格安になってしまいましたが、当時はまだバブルはじける前なので、社員の海外出張は全てビジネスクラスという良き時代でした。
カウンターでは座席の希望を聞かれましたので「窓際の喫煙席」と言いました。これも当時は喫煙可能でしたので、ヘビースモーカーの私はアメリカまで9時間も禁煙する勇気はないものですから喫煙席を頼んだのです。
ところがここからが問題で、何とカウンター嬢は「お客様、喫煙席は満席ですので禁煙席でよろしいですか?」などと聞いてくるではないか!
うわ~! 9時間も禁煙なんか出きっこない!
「何とかなりませんか」と必死で粘った所、そのカウンター嬢はいろいろ端末をたたいてくれて、待つこと20分、ようやく1つの喫煙席を空けてくれました。感謝感激です。でも出だしからこれでは先行き不安です。
まあ気分よくしてイミグレを通り中に入ります。
ここで何かお土産が必要かな、と思い店をのぞくことにしましたが、アメリカ人は何を好むのだろうか、としばし迷いました。
その時に目に入ったのが江戸時代の絵を書いたような大きな風呂敷です。うん、これだ、と思い、数人分買い込んで乗機ゲートに向いました。
その後は案内に従って機内に入ります。ビジネスクラスは初めて乗りましたが、座席は新幹線のグリーン車と同じように幅が広く前も広くゆったりしていて非常に快適でした。不安を打ち消すために、乗ってすぐビールをたくさんもらい酔っ払うことにしたら、それが正解でいつの間にか寝てしまいました。
(2024年6月8日追記)
当時はエコノミークラスでのアルコールは有料でしたが、ビジネスクラスはアルコール飲み放題でした。今ではエコノミーでもアルコール無料になっているので大きな進歩です。当時は全員ビジネスクラスに乗れたのでありがたみはあまりなかった記憶があります。その後バブルはじけてからはエコノミーしか乗れなくなり、アメリカやヨーロッパなど遠隔地への海外出張は何度も行きましたがキツかったです。私の場合はお陰様で53才以降、定年の65才まではビジネスクラスに乗れる身分になったので恵まれていました。
目が覚めて窓の外を見たら、夜が過ぎて朝日が出てきており非常に綺麗でした。感動して写真を何枚か撮影したりしているうちに、間もなくサンフランシスコ空港へ到着との案内が流れてきました。
飛行機は高度を徐々に下げてきます。このあたりで、メーカの人は本当に空港で待っていてくれるのだろうか、などと不安になってきました。しかしそんな不安を打ち消す素晴らしい光景が目に入ってきました。
窓の下には、あのゴールデン・ゲート・ブリッジが見えるではないか!
飛行機はかなり高度を落としており、しかも着陸待ちということで何度もその上をぐるぐる回っています。あわててカメラを取り出して撮影しまくり。それにしても初めて自分の目で見るゴールデン・ゲートには本当に感動しました。
思った以上に大きい橋です。これまで観光ガイドとかで写真は何度も見ていましたが、実際に見ると本当に大きく綺麗な橋です。広い橋の上には車がたくさん走っていました。ここでは「とうとうアメリカにきたんだな」と感慨深いものがありました。
しばし待ったあとようやく着陸しました。
空港に入ると案内板は英語しかありません。良くわからないので回りの外人さんに混じって付いて行き、イミグレを通り荷物を取り出し出口に行きました。
そうしたら向こうで手を上げている人がいます。約束通り先にアメリカに着いたメーカの方が迎えにきてくれていたのです。この時は本当に嬉しかったですねえ。2人で駐車場へ行き、その人が借りてきたレンタカーに乗って目指す会社へ向いました。
◆メーカー訪問初日◆
サンフランシスコから目指すのは南に1時間くらいのサンノゼという街です。そこにはシリコンバレーと言って半導体関係の会社が多く集まっているエリアがあり、目指す会社はそこにあります。
サンフランの街中よりまずハイウエイに乗りました。このハイウエイ、話は聞いていましたがものすごく幅が広くて驚きです。
確か街中は片側5車線くらいあるのでしょうか。そこに車があふれるばかりに走っていて、日本の狭い高速道路とは大違いの快適な道でした。(記憶ではこれは確か101号線です)
少し郊外に出ると道幅もやや狭くなってきて、そこを淡々と走り、約1時間くらいでサンノゼに到着です。目指す会社(LSI Logic社)はシリコンバレーの端の方にありました。
う~ん、この大工業団地は非常に広かったですね。確かに半導体関係の会社がたくさんありました。
その会社に限らず建物はほとんどが平屋建てで面積は非常に広いものでしたが、後で聞いたらアメリカは土地が安いので費用のかかる2階以上の建物はあまり作らず、平屋でゆったりと作っているそうです。
会社の入り口で記念撮影をして中に入ります。
応接は禁煙。その頃よりアメリカの会社は全館禁煙が一般的で、喫煙する場合には広い建物の隅の方にある食堂の更に隅の一角のスモーキングエリアまで行かなければなりません。スモーカーの私にとっては非常につらかったですが、その後の会議中も1時間に1回は抜けてタバコを吸いに行っていました。
でも面白かったのは喫煙しているのはほとんどが有色人種であり、白人は誰も吸っていません。白人は健康オタクが多いと聞いていましたが、確かにそのようでした。
会議室で少し待っていたら相手の会社の人が2人入ってきました。
1人は男性の副社長、もう1人は何と女性の製造管轄の部長です。
シンガポールに来て1年経過した今でこそ女性がバリバリ働いてかなりのポストについていることに驚かなくなりましたが、当時は驚きでした。その女性は主婦で子供もいるとのことで、家庭と仕事をうまく両立させながら働いているキャリアウーマンです。その人とは今後1週間、毎日差し向かいで納期の交渉を行ないました。
で、相手は2人ともにこやかに握手を求めてきましたので、つたない英語で挨拶しながら名刺交換。当然相手はバリバリの英語を話すので、良く分かりませんが、私が日本よりわざわざ来てくれたことに対して敬意を表してくれているのが分かりました。
早速まずはお互いのお土産交換。まず相手が私に高級そうなボールペンをくれましたので、お礼を言いながら買ってきた風呂敷を渡した所、「これは素晴らしい」と広げて見て大喜びしていました。
「これは日本でFuroshikiと言って色んなものを包める万能品なのですよ」と言いましたが、彼らは広げて部屋の壁に飾ると言っていました。う~ん、アメリカ人の考えることは良く分からない・・・(笑)。
まあ、喜んでくれればいいか。
打ち合わせに入ろうとすると「今日は遅いので具体的な打ち合わせは来週より始めましょう」と言われ、「んん? 来週?」と思いましたが、良く考えたら今日は時差の関係で金曜日のもう午後4時。確かに今日は打ち合わせは出来ないな、ということでそのままホテルへ向いました。
ホテルは近くのHoliday Innです。
レセプションで「予約しているstreamですが」と言ったのですが全く通じません。う~ん、本場の英語は難しい。仕方ないので一緒にいるメーカの人に通訳してもらい部屋に入り、疲れもあってすぐ寝てしまいました。
後日談ですが、ある時夜おなかがすいたので、ルームサービスでピザを注文しました。サイズを聞かれたので「ミドル」と言ったのですが、持ってきたのは何と、直径70cmはある大きなピザ!
これはとても食べられません。必死で食べましたが半分以上残してしまいました。流石はアメリカです。
◆サンフランシスコの休日◆
翌日は土曜日。一緒の人とレンタカーで市内観光でもしようか、と言っていましたので、楽しみで朝早く起きてしまいました。
でも外を見るともう7時過ぎなのにまだ薄暗い感じで、しかもあたり一面霧に覆われています。
今日は天気が悪いのかな、と思いましたが、この時期(10月)は毎日こういう天気のようです。眼下に見えるハイウエイを走る車は皆ライトをつけています。9時過ぎになってようやく明るくなりましたが、まだ霧はたちこめています。取り敢えず車を引っ張り出してサンフランの街へ向いました。
まずはゴールデンゲートでしょう。ということで近くまで行きましたがまだ霧がたちこめているので近くの公園で一休みです。
そこで一服していると「ほら、あちらにゴールデンゲートが見えますよ」と言われ、よく見たら霧の向こうにまさしくゴールデンゲートがかすんで見えました。これには感動です。
わくわくしながら車を走らせて向います。
近くからハイウエイに乗り、そのままゴールデンゲートを渡りますが、近づくにつれて赤い橋げたが見えてきた時は本当に感動しました。頼んでゆっくり車を走らせてもらいましたが、それでもあっと言う間に渡ってしまいました。このあたりで霧は晴れてきたので、橋を渡ったすぐ右側にある展望公園に車を止めてしばし感動に浸りながら橋を眺めていました。
すぐ近くで見るとやはり非常に大きな美しい橋です。実際に自分の目で見ているので、感激もひとしおです。
その公園には小さな売店もありましたので、記念にUS$5でゴールデンゲートのキーホルダーを買いました。実はこのキーホルダー、その後も記念に大事に使っており、17年たった今でも使っています。思い出の品です。
その後は向かい側に渡って、やはり展望出来る丘の上から橋を見ました。もう感動、感激しまくりです。あ~、来て良かった、としみじみ思いました。
名残惜しみつつゴールデンゲートを後にして、次に向ったのは海沿いのフィッシャーマンズワーフ(直訳は「漁師の波止場」)です。
ここは海沿いに大きな帆船(中に入れる)やらシーフード・レストランがたくさんあり、ここで昼食を食べましたが、カニとか貝とか非常に新鮮で、しかもかなり安かったのが印象に残っています。
昼食後、あたりをぶらぶら歩きましたが、ここで何とそのメーカの人とはぐれてしまいました。でもまあ、いずれまた会えるだろう、とお気楽な私は1人でぶらぶら見て歩きました。
その時、帆船の前で綺麗な白人の女の子がにこやかに話しかけてきます。英語なので何を言っているか良く分かりません。まさかナンパされているはずはないだろう(笑)、と思って何度か聞き直したら「1人で観光に来たので写真を撮ってくれ」と言っていることがようやく分かり、数枚撮ってあげました。そのまま別れましたが、今から思うと記念にツーショットで1枚くらいは撮影しておくべきでした。残念。。。
その後1時間くらいしてメーカの人に再会出来たので、また一緒にぶらぶら歩きです。
近くの通りに蝋人形の館がありましたのでそこを見たり、パフォーマンスで何時間も動かないで歩道に立っている人をしばらく眺めていたりして、しっかり楽しんできました。
次は少し郊外に出て、小人の館に行きました。
ここには昔、本当に1mくらいのお金持ちの小人が住んでいた屋敷で、非常に広くて部屋もたくさんありましたが、設計はモロに小人向け。だから廊下も狭いし階段なんかは屋根も低くて、身をかがめないと進めないのですが、かえってそれが新鮮な感じでした。
ベットや机も非常に小さかったのをよく覚えています。
翌日の日曜日は市内観光。と言っても車でぶらぶらですが、評判通り坂が非常に多い街でした。残念だったのは、有名なケーブルカーが改修工事中ということでほとんど見られなかったこと。出来れば1度は乗ってみたいと思っていただけに残念でした。
郊外の大きなショッピングセンターにも行きましたが、革製品が非常に安かったのが印象に残っています。
皮製の洒落たジャケットとミニスカートがあったので奥さんのために買って帰ろうと思いましたが、いざ買う段階になって「ん? サイズが分からない。。。」。仕方なく買うのをあきらめました。(情けない・・・)
また、クリスマスシーズン間もないということで大きなツリーも売っていました。高さ2メートルくらいの大きなやつが確か1万円くらいで買えます。しかし流石にそれを日本に持って帰るつもりはなく、日本に帰ったら買おうと思っていましたが、その後毎年そういう大きなツリーを探しても売っているのを見たことがなく、結局いまだに買えていません。残念です。
(2024年6月8日追記)
この大きなツリーは後日、念願かなってシンガポール駐在時に買いました!
詳細は、「(シンガ)生活体験記」の「クリスマス・ツリー」をご参照下さい。
その他に行ったのは、チャイナタウンとその隣の日本人街。
チャイナタウンはごみごみして汚らしかったですね。シンガポールのチャイナタウンも汚いことを考えると、中国人というのはどこに行っても汚くしているようです。(失礼!)
日本人街は小さいですが、本屋にはちゃんと日本の本を売っていました。
また、郊外のハーフムーン・ベイという海沿いの観光地の見学にも行きました。
夜は(確か)ヒルトンホテルの1階にあるお寿司屋さんで夕食。マスターは日本人で若い時に奥さんとアメリカへ移住してきたとのことで、久し振りに日本人に会ったと言って喜んでくれました。
その後は「Hな映画でも見に行こう」とメーカの方が言いましたので、暗い道を歩いて捜して映画館に入りました。道沿いの暗がりにはメキシカンらしき人がたくさんたむろしていて、かなり怖かったですが、メーカの人は酔ったせいか、平気で歩いていきます。
映画館に入ったら流石はアメリカ、いきなりノーカットの大写しです。嬉しいというよりも驚いて、とてもまともには見れませんでした。また客席では黒人のカップルとかがあちこちで抱き合っていたり床の上でxxxしたりしていて、相当にヤバイ雰囲気。
流石に身の危険を感じましたので、メーカの人を無理矢理引っ張り出して逃げるように帰ってきました。
そうして最初の2日間の楽しい休日は終わりました。
明日からは厳しい交渉の日々が続きます。
◆交渉の日々◆
翌日、月曜日からは毎日その会社に通って納期の交渉です。
最初は英語でやりとりしていましたが、なかなか通じないので面倒くさくなって、最後はホワイトボードに私が希望日程表を書き、相手が回答を書く、ということの繰り返し。なかなか日程はマッチしません。
しつこく交渉して、気付いたらもう木曜日。あっと言う間に1週間が経過し、相手も根負けしたのか、ようやくほぼマッチした回答を得られ翌日の金曜日に日本へ帰国することとなりました。
国際電話で上司に結果を報告し「明日帰国します」と話したら、「ご苦労さん。せっかくなので1日伸ばしていいから明日あたりロサンゼルスでも遊びに行ってきなさい。」と言ってくれましたが、もうこの頃には慣れない英語での交渉疲れでくったくたでしたので断って帰国しました。
これも今から思うと非常におおらかな時代だったのですね。せっかくなので行けば良かったな、と今では思います。
◆ようやく帰国◆
また延々と10時間くらい飛行機で日本へ向いました。
不思議なことに1週間も英語だけの世界にいると、何となく相手の話していることが分かってくるものです。そのため帰りは空港ではさほどてこずることなく無事に飛行機に乗ることが出来ました。
日本上空に差し掛かり着陸前に窓の下に成田の高速道路が見えた時は、あまりの嬉しさにおもわず涙ぐんでしまいました。
ところがまだハプニングは続きます。
昨日奥さんに電話して、xx時に到着なので迎えに来て、と頼んでおいたのですが、待てど暮らせど奥さんは来ません。
おかしいな、と思いつつ家に電話すると、「まだアメリカですか?」などと言っています!
「こら~、もう成田に着いたぞ~!」と言うと、何と奥さん、日にちを一日間違えていました。時差の関係で私の伝え方も悪かったのでしょう。これでは来る筈がなく、これから来てもらっても1時間以上は待つことになるので、仕方なくタクシーに乗りました。
ところがこのタクシー、来たので乗り込んだら、運転手はばっちりリーゼントのお兄さん。しかも社内は紫色のシートカバーという怪しい雰囲気。でも降りるわけにもいかず「船橋」と伝えると、そのお兄さんは無言で車を走らせます。それが高速に乗った瞬間、アクセルをどばっ!と踏み、みるみるうちにスピードが上がり、メーターを見たら160kmは出ています!
む~、、、と思いましたが疲れていたのでかえって早く着くからいいか、と思いましたが、料金メーターの上がるのが早いこと早いこと。もう料金ばかり気にしているうちにあっという間に社宅に着きました。
疲れきって「ただいま~」と言いながら家に入りネクタイをはずしていると、隣で奥さんが黙って立っています。
「ん? どうした?」と言ったら、「おかえりなさい。。。」と言ったきり、目がうるうるしてきて涙がボロボロと流れています。
びっくりして「どうした~!」とまた言ったら、やはり新婚で1週間もアメリカへ1人で行ったので、寂しさと心配と重なっていた上に、無事に帰ってきたので嬉しかったようで、しばらく泣いていました。
う~ん、この頃の奥さんはまだ21才ということもあって非常に素直で純粋だったんですねえ。(今では考えられない?!)
まあ、こうして私のハチャメチャな初めての海外出張は無事に終わりました。
この良き思い出は一生忘れることがないでしょう。
(2002年10月11日)