〈1987年(昭和62年)〉 ~ 初めてのシンガポール訪問 ~
◆マレーシア、シンガポールへの出張◆
あれは15年前の昭和62年(1987年)でした。
日米半導体貿易摩擦の影響で会社全体で半導体の輸入促進を行なう、との目的で、本社が音頭をとって代表5工場より各2名ずつ東南アジア(マレーシア、シンガポール)の半導体メーカーを訪問しプロモーションをかける、ということで1週間の出張に出ました。このミッションのメンバーは総勢12人の団体です。
最初はマレーシアのペナン島とクアラルンプールを訪問し、シンガポールには木曜日の午後に入りました。
◆初めてのシンガポール入り◆
クアラルンプールより飛行機で約1時間、木曜日の午後にシンガポールのチャンギ国際空港へ到着です。最初の印象は「とても綺麗な空港だな」というものでした。確かに今見ても綺麗に整備され、チャンギ空港は本当に綺麗だと思います。
空港からはタクシーに分乗してCITYに向います。高速道路が広かったことも印象に残っていますが、CITYに近づいた時に正面に高層ビルが建ち並んでいるのを見た時の感動は今でも良く覚えています。こんなアジアの小さな国がこれほど進歩していることが信じられない感じでした。
ビジネス街の高層ビル群(2009年出張時撮影)
CITYに到着後、まずメーカー1社を訪問し、夜はシンガポール川の河口にあるマリーナエリアのオリエンタル・ホテルに宿泊しました。このホテル、今でもありますが、中に入るとず~っと上まで大きな吹き抜けになっていて、その内側の壁に沿ってガラス張りのエレベーターが動いており、とても素敵なホテルでした。
現在でもマンダリン・オリエンタルホテルとして残っています(2024年 HPより)
部屋も1人1部屋ですが、ものすごく広くて、ベットなんかキングサイズで普通のダブルベッドより余程大きいもので、とても快適でした。しかも各階のエレベータ前には受付があって昼間はホテルの人がいるし、部屋と同じ階(たぶん泊まった階のみ?)には簡単な休憩所があって、そこで朝食を食べることが出来ました。これで当時一泊1万円くらいでしたので、とても安かったと思います。ちなみに現在は正規料金でS$300(2万円)くらいしていますが、それでも部屋の広さや設備を考えたら日本のホテルよりは安いと思います。
着替えた後は全員で食事に出かけました。(記憶では恐らく)行った所は、East Coast エリアにあるオープンテラスのシーフード店です。すべてが新鮮でとてもおいしかったですね。シンガポールは今でもそうですが、シーフードやフルーツは種類が豊富でしかも安いのです。
食事の後は二次会でパブに行きましたが、そこにいたシンガポーリアンの女性は皆綺麗でスタイルの良い中国人でした。(こんなことばかり覚えていますね(笑))このあたりで私はすっかりシンガポールのファンになっていました。
翌日の金曜日は午前と午後と2社訪問しました。
その会社で聞いたのですが、シンガポールにおいてはホワイトカラーのエリートはほとんどが中国人であると誇らしげに言っていました。確かに実際に住んで見るとその通りで、自由なシンガポールでも「差別」ではありませんが「区別」は歴然とあるようです。
また、車は非常に高くて買うのが大変、とも言っていました。これもまさしくその通りです。カローラでさえ900万円くらい軽くするのですから。その人はシトロエンを持っていることを非常に自慢していました。
◆休日の朝の出来事◆ ・・・寝坊して置いてきぼりをくらう!
さて、翌日は土曜日です。予定では、土曜日は「出張レポートのまとめ」となっており帰国は日曜日でした。
しかしせっかくシンガポールに来て土曜日に真面目にレポートを書くことはありません。もちろん、本社もその前提でスケジュールしており、皆で話して、レポートは金曜日の夜に遅くなってもいいから部屋に集まって仕上げ、土曜日は観光に行こう、ということにしました。で、金曜日の夜はディナーのあと部屋に集まり、真面目な半分くらいの人にレポートを作成してもらい、私を含めていい加減なメンバーは脇でお酒を飲んでいました。(こんなことでいいのだろうか??)
仕上がったのは夜の1時過ぎだったと思います。そこから明日の観光をどうしようか、と話しました。全員で12名いましたが、まずゴルフをやる人が6人、この人たちはゴルフに行くこととしました。それで私を含めてゴルフをしないメンバーが6人いて、こちらは観光バスに乗って市内観光に行くこととし、集合場所に朝の8時に集合することを決め、寝ることとしました。
翌朝、けたたましい電話の音で目が覚めました。
寝ぼけながら「もしもし」と言うと、「stream君、まだ部屋にいたのか!」と言うではないか! あわてて時計を見ると集合時間の8時を5分くらい過ぎています。「うわ~! 寝坊した~~!!」とあせり、「今から行くけど大丈夫か」と聞いたら、その仲間はどうやら電話の向こうでバスの運転手と話をしています。
そして次の言葉は無情なものでした。
「バスは遅れるわけにはいかないので、すぐ出発するって言っているよ。悪いけど我々はこのまま観光に行ってしまうね。ごめんね」と言って、電話はガチャッと切られました。。。
私はしばらく受話器を見つめて「・・・・・・・・・・」状態です。
しばらくしてようやく、置いてきぼりをくらった、と、事の重大さに気付きました。
◆1人でシンガポールぶらぶら歩き◆
さて、置いてきぼりをくらった私は1人で部屋で放心状態でたばこをふかしていましたが、今日1日1人で何をしようか、と考えていました。仕方ないのでしばらくは部屋でぼけっとしていましたが流石にヒマだし、時間がもったいない感じがしましたので、外へ出てみました。
まずは観光案内で有名なマーライオンを見に行きました。
シンガポール川の河口へ出てみると、おお! 向こうにマーライオンが見えます。しかし残念ながら口から水を吐いていません。今から思うとこの頃から既にマーライオンは老朽化していて、水を吐いていなかったようです。
やはり口から水を吐かないマーライオンにはがっかりです。
マーライオンは世界三大がっかりのひとつ、と言われていますが、この時ばかりは納得でした。
当時よりすでに口から水を吐いていなかったマーライオン(2001年撮影)
それにしても無茶苦茶に暑い!! あまりの暑さにとろけそうです。
そこで近くにあるマリーナの大型のショッピングセンターに入ってみました。これはオリエンタル・ホテルよりすぐの所でした。
マリーナ・スクエアへ向かうデッキ(2016年撮影)
ショッピング・センターの中は人ごみで大変でしたが、エアコンがきいて涼しい上に綺麗なお店がたくさんあって飽きることがなかったです。しかもシンガポール女性は皆スタイルが良いことにも驚きました。当時はミニスカート全盛だったので見ていて楽しかったですね。(こんなことばかり覚えている(笑)) この状況は今でも変わっていません。
その中の1軒に立ち寄ったところ、スズで出来た(たぶんメッキ)小さなビールジョッキとローソクスタンドがありましたので、記念にお土産に買ってきました。このジョッキは日本にいる間はずっと使っていましたし、ローソクスタンドはしゃれたデザインであったので、子どもたちが小さい頃は、毎年クリスマスイブの時に使っていました。今でも持っていて、懐かしの思い出の品の1つです。
当時買ったローソクスタンド(2024年撮影なので、もう37年ものです!)
◆続いて1人でぶらぶらドライブ◆
その後はまたホテルの部屋に戻ってきましたが、まだ昼前です。時間を持て余して何気なく部屋に備え付けのシンガポール案内を呼んでいたら、レンタカー会社の宣伝があり、日本の免許証で車が運転出来る、と書いてあります。これが本当なら絶好の暇つぶしになります。そのレンタカーはオリエンタル・ホテルのすぐ下にあるようなので、ダメモトで行ってみました。
そこで日本の免許証を見せて車を貸してくれ、と言うとOKでした!
(ちなみに現在は国際免許またはシンガポールの免許への切り替えが必要です)
車は確か三菱ミラージュのマニュアル変速機の車です。日本でも既にオートマチック全盛の頃、シンガポールではまだマニュアルが多かったのではないかと思います。久し振りのマニュアル車でしたが、まあ大丈夫だろう、と言うことで借りることとしました。
もともと車の運転には自信があったし、シンガポールは日本と同じ右ハンドル・左側通行である上、ハネムーンでグアムに行った時もレンタカーで島内を回った実績があったので(そこは左ハンドル、右側通行)たいして抵抗はなかったです。
まずは道路地図を借りて、どこへ行ってみようか、と気分はわっくわくです。
見ると島の南にセントーサ島、西にはバードパークがあり、北ではマレーシアを臨めるようなので、このあたりを回ってみることとしました。
当時は高速道路は東西に1本と南北に1本あるだけだったと思います。今から思うと、中心部のPIE(Pan Island Expressway)とCTE(Central Expressway)でしょう。今ではすっかり幹線道路になっています。またウエストコーストを走るAYE(Ayer Rajah Expressway)もCITY近辺しかなかったと思います。
まずはマリーナエリアよりこのAYEに入ります。インターチェンジが大きくて迷いそうでしたがなんとかセントーサの方へ向かって行きます。
少し走ってセントーサの近くにきましたので、一般道におり、有名なロープウエイの下をくぐります。
ここは混雑していそうだったので、そのまま止まらず走りぬけ、しばらく行ったところでウエスト・コーストの綺麗な海岸公園があったので、そこでジュースを買って一休みです。人がまったくいなくて、海からの風がとても心地よかったのを覚えています。
しばらく休んだ後、バードパークにも行ってみました。ここでは非常に多くの鳥がいることと可愛いバードショー、にぎやかなお土産屋が印象に残っています。とにかく暑かったですが見るところが多くて暑さはあまり感じませんでした。時々足元をトカゲらしきものが横切って行ったりして、ちょっと気持ち悪かったです。
こちらに赴任してから真っ先に行ったのは、この懐かしのバードパークでしたが、今でもぜんぜん変わっておらず、非常に懐かしい思いをしました。
今も昔も変わらないバードパーク(2002年撮影)
お次は北に向かいます。
ちょっと高速道路を走ってちょうど島の真ん中あたりで一般道におりてみると、貯水池がたくさんあって回りは緑鮮やかな木々に囲まれているエリアに出ましたので、車を降りてみます。やはり森と湖のある所は涼しかったですね。あまりに気持ちいいので、ちょっと草の上に出てそこでゴロンと転がってみました。風が心地よくてうっかりすると本当に寝てしまいそうだったので、残念ですが出発しました。
更に北に進むと蘭の花がたくさんある蘭園(Orchid Garden)がありましたので入ってみました。
ここはたいして広くはありませんでしたが、確かに蘭の花がたくさんありました。いろんな種類の蘭の花が咲き乱れていましたが、花のことはさっぱり分からない私は、ただひたすら園内を歩き回り、その美しさに感動していました。
この蘭園も赴任してから家族で行きましたが、昔とちっとも変わっておらず、何となく安心しました。
蘭園(Orchid Garden)(2002年撮影)
さて蘭園を出るとすぐ近くには動物園がありますが、もう暑いしシンガポールに来てまで動物園はないだろう、ということで、そこはパスして次はシンガポール北端へ向かい、海峡越えにマレーシアを見ることとしました。
地図を見ながら少し走ると、シンガポール最北端と思われる公園に着きました。このあたりは回りはすっかり住宅街になっており、非常に静かな公園であったのが印象に残っています。
車を止めてしばし海の向こうのマレー半島を見ていたら、近くでインドネシア系かマレー系の子供たちが数人ボール遊びをしています。近くに行ってにっこりしたら、子供たちも親しげに近寄ってきたので、しばらく一緒に遊びました。お互いに言葉は通じませんでしたが、童心に戻ってボール遊びをしたので、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。これも非常にいい思い出です。あの子供たちも今は22~23才になっていることでしょう。きっとまだシンガポールにいるのでしょうが、どこかですれ違っているのかもしれません。
対岸にのぞむマレーシア(2001年撮影)
ところでこの公園、赴任してから一度行ってみたいと思いながら、どうしてもその場所が分かりませんでした。
半分あきらめかけていた時、ちょうどこの春、会社のメンバーと一泊研修にセンバワンという所の研修センターへ行きましたが、その場所が近づいてくるに従い「なんか見たような光景だなあ」と感じました。「もしかして・・・」と思いながら進んでいくに従い、この場所こそあの時の公園だ、と確信が持ててきて、着いたら確かに間違いなくその公園でした。いやあ、この時は本当に嬉しかったですねえ。15年前に子供たちとたわむれたことが、つい昨日のように思い出せ大変懐かしい思いをしました。
もう夕方になったので、そのあとは一般道で南に向かい、ホテルに帰ることとしました。走りながら左側に完成して間もない陸上の高架を走るMRTが見えました。(このあたりはユシンという所でしょう)
しばらく走って街に近づくと、非常に大きな一戸建ての高級住宅が立ち並ぶエリアがあり驚きました。ここはたぶんニュートンのあたりだと思います。ほどなくしてオリエンタル・ホテルに着きましたので、車を返して部屋に戻りました。
◆ホテルにて◆
ほぼ同じ頃、ゴルフ組と観光組が帰ってきて、今日の観光の思い出話になりました。私が1人で今日一日近くを歩き回り、ドライブまで行ったことを話すと、流石に皆驚いていました。
聞いた所、まずゴルフ組は暑くて暑くてゴルフをエンジョイするどころではなかったようで、皆ぐったり疲れ切っていました。また、私を置いてきぼりにした観光組は、観光バスで何箇所か回りましたが、おざなりの観光でつまらなかったと言います。よって本日の結論は、置いてきぼりをくらった私が一番シンガポールを楽しめた、ということになり、「すごいな~、いいな~」の連発でした。
◆帰 国◆
翌日の日曜日に日本へ帰国しました。わずか2日半しかいなかったシンガポールでしたが、思い出はたくさん残りました。
帰りの飛行機の中で「いつかまたシンガポールに遊びに来るぞ」と誓いましたが、結局なかなか時間が取れず遊びに来たことはありませんでした。
その時はまさか15年後の今、駐在員としてここに暮らそうとは夢にも思っていませんでした。
(2002年10月23日)