日本帰国 2004 (仙台)

昨年に引き続き今年も春休みを利用して家族ともども日本へ一時帰国してきました。1年振りの帰国となります。
家族は早めに2004年3月18日から、私は後を追って4月3日からの帰国で、帰りは一緒に4月11日にシンガポールへ戻ってきました。よって家族は3週間、私は1週間の帰国となりました。

◆2週間の単身赴任◆

家族が先に帰国したので、私は自然と2週間は単身赴任生活になりました。本来ならば「鬼のいぬ間の何とやら」という楽しい単身赴任であるはずでした(笑)が、どうしたものか家族が帰った途端に会社の仕事がものすごく忙しくなり毎日ヒイヒイ。とても単身赴任を楽しむどころではなく、むしろ洗濯や食事など家事全般を自分でしなければならないので、かえってキツイ毎日でした。
食事は今更自炊する気にもなれず、毎日会社の帰りに明治屋に立ち寄り、今夜のお弁当と明日会社で食べる昼食用のおにぎりを買い込む生活です。シンガポール赴任当初の日課でもあったのでこれはあまり面倒くさいとは思いませんでした。

つらかったのは、家に帰ってきて「ただいま~」と言っても、部屋は真っ暗、誰も「おかえり~」と言わない・・。これはとても寂しく感じました。最後には自分で「ただいま」「おかえり」などと1人芝居をする始末。やはり2年間、こちらで家族と一緒にいたので急に1人になってしまうと寂しいものがあります。

でも1つだけメリットがありました。それは家族と一緒の時はゴルフは週に1回土曜日のみで日曜日は家にいたのですが、この時ばかりはそれこそ「鬼のいぬ間」をフルに活用して、2週間連続で土曜・日曜とゴルフ連チャンを楽しみました。でも疲れていたせいかスコアは芳しくなかったのが残念でした。

そうこうしている間にあっと言う間に2週間が過ぎ、4月2日(金)に会社を終わらせたあと、いよいよ私もJALの夜便で日本に向けて出発しました。明日の朝には成田空港に到着し、家族が車で迎えに来ることになっています。

◆一路故郷の仙台へ◆

さて4月3日は土曜日。飛行機は予定通り朝の6時に成田空港へ到着し、イミグレを抜けて7時前には外に出ました。まずは6時間の禁煙に耐えてきたので、外で一服。う~ん、いつもですが長時間の禁煙のあとの一服は非常においしいです。
見ると気温は13度ほど。33度のシンガポールから来たらやはり肌寒い感じがしました。

奥さんと子供たちはこれまで千葉県の旭市の近くの実家にいたので、そこから車を借りて7時に迎えに来ることになっています。しかし待てど暮らせど家族は来ません。途中実家に電話したら既に出ているとのことなのでイライラしながら待っていると、40分も遅刻して「ごめんね~」とやってきました。聞いたら娘が出発前の準備に手間取って遅れたとのこと。怒りたい気持ちで一杯でしたが、久し振りの家族の顔を見たら怒る気は一気にうせてしまい、再会を懐かしむことになっていました。
う~む、私もまだまだ甘いかな・・・。

早速車に乗り込み1年振りの私の故郷、仙台に向かいます。本日は土曜日なので福島県郡山市に住んでいる弟家族も仙台に来ることになっており、久し振りの一家集合となります

車は奥さんの実家の「トヨタ ハリアー」という車です。これは室内も広く背も高いので本当にゆったり乗れます。この車に乗り込む前にフと横を見ると、ちょうど桜が満開になっていましたので、感動しながら写真をパチリ。うん、やはり日本は情緒あっていいですね。気候も適度に涼しいし桜は綺麗だし最高です。

実家のハリアー

桜も満開で綺麗

さてここから一路仙台に向かいます。東北道を走ると混雑するので、一般道で土浦まで出て、そこから常磐道~磐越道~東北道と乗り継ぎ仙台まで走りました。途中、福島あたりまでは道路の両側に桜が咲いているのが多く見られ感動しまくり。しかし宮城県に入るとまだ桜は咲いておらずちょっとがっかりです。約5時間のドライブで仙台に着きました。わが実家は東北道の仙台宮城インターから約15分くらいの北部の団地にあります。2時前には懐かしの仙台の実家に到着し、母親と1年振りの再会になりました。

仙台はやはり千葉にくらべても寒いですね。昼間はいいのですが朝晩はかなり冷え込み寒い思いをしました。聞いたら弟家族は夜の8時ころまで来ないとのこと。仕方なく子供たちを連れて久し振りの仙台の街に出てみることにしました。

◆懐かしの母校めぐり◆

さて街に出ると言っても単なる繁華街を歩いても面白くありません。そこで思い立ったのが、私の母校を全部見て歩こうということでした。私は生まれは同じ宮城県の石巻市ですが生まれてすぐ仙台に引越しし会社に入るまで仙台にいました。(小学校の2年間のみ石巻にいましたが)。そのため幼稚園~小学校~中学校~高校~大学とずっと仙台です。
その母校には何年も行っていないので久し振りに見てみたいと思ったのです。また、生まれてすぐから小学校2年生までは東仙台の社宅にいましたので、そこも懐かしくなって見てみたいと思いました。こう考えるのは、年を取った証拠でしょうか(笑)??


まずは懐かしの東仙台に行って見ます。付近の道路はすっかり変わって広くなっているはずなので、カーナビ便りに行って見ます。
まずJRの東仙台駅に到着しました。ここは昔は木造の小さな駅舎でしたが今ではすっかり変わっていました。しかし相変わらず小さな駅舎であることには変わりがありませんでした。駅前もコンビニが1軒あるだけで回りは住宅地になっており、ぜんぜん発展していません。昔からの住宅地なので発展しようがないのでしょうか。ちょっと寂しい感じです。
でも大きな違いは、駅の後ろに昔はなかった東北新幹線の高架があることでした。
懐かしいのでここでも子供と記念撮影です。次には、すぐ近くの社宅に向かいます。

JR東仙台駅

行って見ると社宅はすっかりとりこわされて、別のマンションが建っていました。このあたりは社宅の裏側は一面田んぼで、子供の頃はそこでよく遊んだものでしたが、今ではすっかり住宅街に変貌し昔の面影はありませんでした。
しかし社宅の向かいにあった東仙台中学校は今でも健在で残っていたのが救いです。

マンションに変わってしまった社宅跡

いまだ健在だった東仙台中学校

今から思うと私も子供の頃は相当な「ガキ大将」で近所で暴れまわっていましたが、その情景がつい昨日のことのように浮かんできて本当に懐かしい思いをしました。うん、来て良かった。では続いて懐かしの母校めぐり第一弾として幼稚園に向かいます。


私が通った幼稚園は「ナザレト幼稚園」というキリスト系の幼稚園でした。探して車で行って見ます。ほどなく看板を見つけたので入ってみました。
車を止めて敷地に入ってみます。見ると正面に懐かしい幼稚園があり隣には保育園があります。校庭(?)は思った以上に広く、子供向けの遊具がたくさんありました。でも幼稚園は子供の頃は背が小さかったせいかもっと大きく感じたものですが、今改めてみてみると意外と小さいなあ、という印象を受けました。

懐かしのナザレト幼稚園

いずれにせよ横に回ってみると子供の頃に皆でお弁当を食べた部屋など、昔そのままに残っており感動しました。この幼稚園に通っていたのは今からもう40年近くも昔ですが、よくぞ昔のまま残っていてくれたなあと思います。外観などは綺麗なので何度か改装したのでしょう。もしかしたら一部は外観なども変わっているのかもしれません。

校庭の隅にある遊具

正面の看板


さて次は小学校へ行って見ます。
実は私は父親が転勤の多い銀行員であった関係で小学校を5つも変わっています。仙台市内で4校、石巻市で1校ですので、各々約1年ちょっとしかいませんでした。その最初に入学したのが東仙台小学校で、ここには2年生の前半までいました。ランドセルを背負って友達と毎朝歩いて通ったこと、隣の席の女の子と授業もロクに聞かずふざけてばかりいたこと等、今でもよく覚えています。
(2024年3月21日追記)
小学校は、東仙台小学校(仙台)→荒町小学校(仙台)→山下小学校(石巻)→小松島小学校(仙台)→中山小学校(仙台)に通いました。いずれも懐かしい所ですので、また機会見て回ってみたいと思います。

当時はまだ木造2階建ての校舎であったのですが、いざ行って見ると当然ではありますが鉄筋の新しい校舎に変わっており、昔の面影はまったくありませんでした。場所は昔のままですが、付近もすっかり住宅地になっておりどう見ても昔の面影はなく、ずいぶん変わってしまったんだなあ、としみじみ感じました。

最初に入学した東仙台小学校

本日はここで夕方になってしまったので母校めぐりはここでおしまいにし、続きは翌々日に再度回ることとしました。

その日の夜には弟家族が到着です。そちらは子供が3人もいるのでわが実家はうちの家族と母親を含めて総勢10人と、非常に賑やかになりました。翌日の朝には皆で久し振りの父親の墓参りです。お墓は仙台市営の葛丘(くずがおか)霊園にあります。
そこでまたお墓の前で全員で記念撮影。幽霊が映っていなければいいのですが。

 

 

 


さて日を変えて母校めぐりの続きを始めます。まずは中学校です。
私の家は小学校5年生の時に現在の実家を持ち家として確保したので、それ以降はようやく転校なしの落ち着いた生活になりました。場所は北仙台の滝道という団地になります。よって卒業した最後の小学校は家のすぐ近くの中山小学校であり、中学校も近くの北仙台中学校に通っていました。この学校は当時は出来たばかりの新しい学校でしたので、付近の新興団地のサラリーマンの子供が多く入学していました。

行って見ると基本的な校舎、体育館、プールなどは変わっていません。裏にある公園も昔のままで懐かしく見てきました。ただ、流石に昔に比べて生徒数が増えたせいか校舎は継ぎ足して大きくなっていました。中には入れなかったのでネットの外から写真を撮りました。

北仙台中学校

中学校でのクラブ活動は最初はテニス部に入りましたが、これがまた非常に厳しく、新入生は毎日毎日外を走らされてばかりいたのでキツくてやめる人が多かったのを覚えています。実はかくいう私もすぐにやめてしまいました。
次には陸上部に入り短距離が得意の私は100メートル走やハイジャンプをやっていましたが、これも2年生くらいでやめてしまったと記憶しています。昔から熱しやすく冷めやすい性格だったのでなかなか長続きしなかったのですね。今から思えばちゃんと最後まで続けておけばよかったな、と思います。

中学生時代の思い出は、悪友と夏休みになると毎日市民プールに行ってナンパしたことでしょうか(笑)。
これ意外と簡単。狙いを定めた女の子の所にブクブクともぐって行って、わざとぶつかり、顔を出して「ごめんね~」と言うのです。そこで何気なく「君たち、どこの学校なの?」と聞けばほぼOK。ナンパ成功率は驚異的な高さで、99%近かったのではないでしょうか。ナンパしたあとは2時間ほどは一緒に遊んでいました。でも基本的にその場限りとしており、深く追いかけませんでしたが、これも今から思うと勿体なかったかな(笑)??


続いて高校に行ってみます。このあたりになるとかなり記憶がしっかりしているので、当時のことは良く覚えています。

当時の仙台の高校は公立も私立も全て男女別々という極めて珍しい形態でした。また主な学校はナンバースクールと言って、男子校は仙台一高、二高、三高、女子高は宮城第一女子、第二女子、第三女子と分かれており、その数字がそのまま学力レベルを示しているという、極めて単純な構成になっていました。仙台は学校が非常に多くありこの他にも多くの公立校だけでなく私立の学校も男子校、女子高とも数多くあります。それは今でも変わりありません。

私立高校ではスポーツで有名で良く甲子園にも出ている仙台育英や東北高校もあります。特に最近は東北高校は色んな分野のスポーツに力を入れており、最近話題の若手女子プロゴルファーの宮里藍ちゃんもこの東北高校出身です。また同様に野球やゴルフで有名な東北福祉大学も仙台にあり、ここからは野球のゴジラ佐々木投手やゴルフの宮里3兄弟のお兄さんも出ています。
(2024年3月21日追記)
その後も仙台出身者の活躍が目立ち喜ばしいことです。
主なところではスケーター金メダリストの荒川静香さんと羽生結弦さんは仙台出身で東北高校出身、日本人初としてゴルフメジャーのマスターズで優勝した松山英樹さんは出身は四国ですが大学は東北福祉大学です。また、バスケの八村塁さんも高校は何と我が実家のすぐ近くの高校でした。その他にも多くの選手が仙台より出ていることは嬉しい限りです。
また、2022年には夏の甲子園高校野球で、仙台育英高校が東北として初の優勝を飾りましたことも多くの東北人を感動させました。

私はその中の仙台二高に入りました。伝統ある学校でありその頃はまだ古い鉄筋の校舎であり、当時でも「ずいぶん古い校舎だなあ」と思ったものです。しかし今ではすっかり最新の校舎に変わっており当時の面影はありません。かろうじて道路の向かいにある体育館とプールが昔のままでした。
仙台二高は色んな意味で仙台一高とはライバル関係にあり、在学中は常にいがみあっており仲は悪かったです。一高は茶畑という変な地名の所にあったので、我々はいつも「茶畑のサル」と呼んでバカにしていたものです。(一高OBの方、ごめんなさい)

仙台二高の正門から見た校舎

極め付けが「仙台一高二高定期戦」であり、これは毎年行なわれる硬式野球の定期戦のことで、この時期になるとかなり盛り上がったものでした。レベルこそ名門の東北高校や育英高校にはかないませんでしたが、互いに互角の実力レベルであり毎年勝ったり負けたりしていたのです。前夜祭などは皆で繁華街の一番丁を練り歩いたりして、以前はそこで一高のメンバーとかち合ったりすると、ひどい時には乱闘騒ぎまで発展したこともあったようです。今回訪問した時も定期戦が間近であったようで、「定期戦まであとxx日」という大きな看板が正門にたっていました。
でも面白いもので、一高も二高も東北大に進む人が多かったのですが、大学に入ると逆に同じ地元ということで非常に仲良くなったものでした。


高校での思い出の1つはオートバイでしょう。
当時はオートバイが人気で暴走族も絶頂期の頃で、私も350ccのオートバイに乗っていました。ホンダのCB350Fという4気筒マシンで、これであちこちツーリングに行ったものです。(大学時代はCB750Fという、いわゆるナナハンと言われる大型バイクに乗っていました)

以前乗っていたCB750F (シートには当時の愛猫が)

学校はオートバイそのものは禁止していませんでしたが、オートバイ通学は基本的に禁止。しかし我々はこっそりオートバイ通学しており、いつも学校の裏の道路脇にオートバイを隠して止めていました。しかし私が二年生の頃、三年生の先輩がオートバイで事故を起こし死亡したことがありました。残念な思い出です。私の中学校時代の友人も50ccの原付バイクでやはり事故で死亡しています。かくいう私も何度か滑って転んだり車に突っ込んだりしましたが、奇跡的にかすり傷1つ負わずにすみました。今から思うと結構危ない運転をしていたものです。

でもあの頃はバイク乗りということで結構女の子にモテたものです。ヘルメットをぶら下げて街中の喫茶店に入ると、カウンターにいた見知らぬ女の子に「こんにちは~」と声を掛けられたことも何度かありました。いわゆる「逆ナンパ」ですね(笑)。当時の私は硬派を気取っていたので無視しましたが、今から思うと残念です(笑)。

もう1つはやはり皆さんと同様(?)、タバコですね。
高校入学したと同時に私は父親の勧めでタバコを覚えました。(とんでもない父でした(笑))。
タバコを吸うやつは多くおりましたが、当然学校ではタバコは見つかったら停学になります。いつもトイレや屋上で先生に見つからないようにこっそり吸っていたものです。ある友人はトイレで吸っていたら先生に見つかってしまい出るに出られず、鍵を掛けたまま一日トイレにこもっており、夜になってやっと出てきたという人もいました。
かく言う私も屋上で吸っていて吸殻を下に捨てたら、何と、最もうるさい先生の頭に吸殻がポトリ!
「こら~~!」「うわ~、逃げろ~!」と速攻で逃げたので顔は見られずバレませんでしたが、しばらくは「とんでもないやつがいる!」と学校内で大問題になってしまいました。

尚、仙台一高、二高及び宮城第一女子高は制服というのはなく、全て私服でした。またヘアスタイルなどの制限も一切なく、全ては生徒の自主性に任せるというスタイル
よってかなり派手な格好をしている友人も多くおり、金髪に染めた人、肩までかかるくらいのロングヘアにしている人など、個性的な格好で学校に来ていました。一部の私立高校は制服でスカートのタケはひざまで、とかソックスは白などとうるさかったようですが、そこまで制限しなくてもいいのになあ、と思ったもので、こうした教育方針もなかなかユニークでした。

一番の楽しみは文化祭。先に述べたように仙台の高校は全て男女別々なので、文化祭というと皆で授業をサボってまで女子高めぐりをしたものです。そこで彼女を作った人も多くいました。逆に言うとそういう時でないと女性と知り合う機会が少なかったので皆必死です。我々もあちこちの女子高によく行きました。楽しい出会いには無縁でしたが(笑)。
とにかくこの高校時代はまさしく青春で、非常に楽しい時期でした。


最後は大学です。私は地元の学校ということで東北大学の法学部に通っていました。
法学部というとなんか難しそうですが、祖父が裁判官&弁護士であった影響で入ったものです
よって真面目に勉強することは少なく、相変わらず毎日自由に過ごしていました。実に平和な4年間でした。

場所は広瀬川の近くの川内(かわうち)という所にあります。仙台二高からは隣になりますので、この場所に私は7年間通ったことになります。
教養学部は皆そこで、専門課程になると理科系は青葉山の上や街中のキャンパスに変わりますが、文科系は同じ場所になります。その場所にも行ってみて写真をパチリ。ここだけは流石に昔と変わっておらず、小さな食堂や近くの講堂なども昔のままでした。

木に囲まれた東北大学文系キャンパス

文系キャンパス案内図

以上で懐かしの母校めぐりはおしまいです。


最後は仙台二高や東北大学文系キャンパスの近くの澱橋(よどみばし)の上から懐かしの広瀬川の風景を撮影。広瀬川は相変わらず静かで綺麗でした。あとはせっかくの仙台なので奥さんと娘は街中にショッピング。私と長男は買い物には興味ないので、近くのスーパーの本屋に行ったりゴルフショップを見たりして過ごしました。
(2024年3月21日追記)
実は仙台二高からこの澱橋を渡ると、右側に尚絅(しょうけい)女学院高校、左奥には宮城第一女子校と聖ドミニコ学院女子高校があったので、学校帰りにはバス停に多くの女子高生がおり、その前を自転車で通るときは「見られ」を意識してドキドキしたものです(笑)。
今はいずれも男女共学となったようですが、当時は女子校でした。

広瀬川

仙台には3日間滞在して4日目にはまた千葉に戻ってきました。これでまた1年以上はここに来ることはないのですが、来年の春にはまたきっと来てみて、今度は仙台の観光地めぐりをしてみたいと思います。

(2004年4月17日)