なじみの店(高崎編)

私は1981年(昭和56年)に某電機メーカーに入社したあと千葉県の習志野にある工場に配属され、そこに1999年(平成11年)までいた。その間に結婚もし千葉県の成田市にも戸建住宅を建てた。1999年というとすでに40才であり、もはや転勤はないだろうと思っていた所、1999年4月に新潟県の中条町(2024年現在では胎内市)に異動になり、同じく1999年8月には群馬県の高崎市にある半導体工場にまたまた異動となったのである。いずれも急だったので単身赴任で赴き、寮生活を行なった。

赴任した高崎の半導体工場

ちなみに高崎市の工場は女子ソフトボールが強く、有名な宇津木妙子監督がおられた。任期中の2000年シドニーオリンピックでは当社高崎工場を中心とした全日本メンバが大活躍し銀メダルを取ってきたことも懐かしい思い出である。
(こう書くとどの会社かすぐ分かってしまうと思うが…)


さてさて、異動に伴う仕事の変化や初めての単身赴任など問題はあったが、何と言っても一番の問題は、初めての土地における良いパチンコ店を如何に見つけるか、である。

高崎から自宅の成田までは結構な距離があるので、毎週週末に帰るのは厳しく、隔週で帰っていた。
言い換えると隔週での土曜日・日曜日は高崎にいたので、開店から閉店までパチンコ三昧の生活をすることとした
平日も早く帰れた日は、夜にパチンコ店に良く通ったものである。
そのため、普段から有意義に過ごせる優良パチンコ店の発掘が極めて重要であった

中条町から高崎市への引越しは赴任日の前日に年休を取って行ない、荷物はトラックで送り自分は車で移動した。午後には高崎の寮に着き、生活に必要な主な荷物のみをほどいた後は、早速いそいそとパチンコ店捜索に出かけたのである

経験的に街中や駅前のパチンコ店はあまり出ず、郊外にある店がよく出るし対応も良い。そこで高崎を通る国道17号を北から南に向かい走り、主だったパチンコ店に1軒1軒入り様子を見たのである
高崎は、パチンコの盛んな群馬県だけに、大きなパチンコ店が何軒も並んでいた。しかしいざ入って見ると人も多くよく出ていそうであったが、大型店は何となく落ち着かない感じがした。そこで付近の小型~中型店で良さそうな店を探してみたのである。


そうした所、高崎南部の倉賀野の近くに、国道17号から1本入った脇道に程よい大きさのパチンコ店があったので入ってみた。
見た所、よく出ている感じであり、客層も悪くはない。また、店内も清潔で感じが良かった。

そう、この店こそが高崎在勤中に通い続けた店「ニュー丸の内」である。

高崎にはシンガポールに赴任する2001年6月まで1年8ヶ月いたのであるが、その間はこの「ニュー丸の内」には平日夜も含めて週4~5回は通っていた。そのくらい気に入っていたのである。

打っていた台は、CR海物語が多かったが、その他にもCRフィーバービックパワフル、CR歌舞伎、CR富嶽などを良く打っていた。
途中より入ってきたCRフィーバーカジノは「どでかドラム」が売りの台であり、一日粘っていれば夜には必ずと言っていいくらい爆発し大量の出玉を得ることが出来、大変おいしい思いをした。

CRフィーバーカジノ

今から振り返ってみると、いずれも個性的で楽しい台であった。

この店の思い出の1つは、休日の昼には外部の業者がたこ焼きを売りに来たことである。付近には食堂がないので、休日の昼はいつもこのたこ焼きを食べていたことが懐かしく思い出される。
また、景品交換所のかわいいお姉さんとは親しくなり、端玉については規定の玉数より少なくても、いつもこっそり私の吸うタバコのセブンスターを1個渡してくれたのである。


しかし高崎に赴任してわずか1年8ヶ月でシンガポールに行くこととなってしまったため、この「ニュー丸の内」を楽しむ期間は短く残念であった。
シンガポール赴任の2日前、高崎最後の夜には、会社が終わった後にこの「ニュー丸の内」に最後のパチンコを打ちに行った。
その時打った台は平和のお祭りをモチーフにしたCR和風彩祭という変わった台で、確変をゲットし有終の美を飾らせてくれたのである

日本最後に勝たせてくれたCR和風彩祭

最後に景品交換所で、これまで親しくしていたお姉さんに実は今度シンガポールに行くことになったので、この店は今夜が最後なのです」とお別れの挨拶をし、涙の別れをしたのであった。

この「ニュー丸の内」は現時点(2024年)では、残念ながらもうなくなっているようである。
この店にせっせと通ったことは高崎在勤時代の良き思い出となっており、今でも時々この店のことを懐かしく思い出すのである。

(2024年7月20日)