平家の里(栃木)

〈2012年8月12日〉

かつて栄華を誇った平家は1185年の壇ノ浦の戦いで滅亡しましたが、その落人(おちうど)は全国各地に散らばり生き残っていたと言われています。その1つが栃木県の湯西川温泉にあり「平家の里」として保存されていますので、行ってみました。

湯西川温泉というと聞き覚えのない方も多いと思いますが、日光を北上した先にある鬼怒川温泉の先の川治温泉の更に北部に位置する所に野岩鉄道の湯西川温泉駅があり、そこをまっすぐ北上すれば会津若松へ行きますが、そこから分岐して西に曲がれば、暫く先に湯西川温泉があります。かなり山奥の秘境となります。

この地には、平清盛の孫である平忠房が落ち延びたとされています。

平氏家系図(平忠房が湯西川平家の祖と記載):平家の里公式HPより


さて那須高原にドライブに行った帰りにこの平家の里に行ってみました。
まずは湯西川温泉駅に到着です。
ここはすぐ隣に川があり、福島方面から来ると鉄橋を渡ってすぐトンネルに入る珍しい地下駅となっています。駅前には道の駅もあり結構賑わっていました。

湯西川温泉駅(地下駅となっています)

湯西川温泉駅から出る野岩鉄道の鉄橋と、その向こうの国道

ここから西部の湯西川温泉に向かいます。すぐ横には湯西川が流れており綺麗でした。

湯西川

しばらく湯西川に沿って山道を13km、20分ほど走ってゆくと、いよいよ目指す平家の里」に到着します。
「平家の里」の入口辺りには食堂などが多くあり、ちょっと賑やかになっています。

平家の里入口

入口前には多くの看板があり賑やかです

平家の里には9つもの古民家が配置されておりますので、一通り見て歩きたいと思います。

平家の里の案内図:平家の里公式HPより

ではいよいよ平家の里に入ってみます。入口は重厚な感じですのでワクワクします。

平家の里入口

内部に点在する藁葺き屋根の古民家は昔のまま残されていますので感動します。

藁葺き屋根の古民家

中を覗くと、当時の各種の農機具や家具などが陳列されています。
中には鹿の燻製や本当に使っていたと思われる籠などもあり、見どころは多くありました。籠を使うくらいですから、かなり身分の高い人も落ち延びたと思われます。

鹿の燻製もある古民家の中

実際に使っていたと思われる籠

更に進み別の民家を覗くと、そこには平清盛と平敦盛の蝋人形がありました。いずれもとてもリアルに作成されていましたが、敦盛がかなりのイケメンであることに驚き。実際にも敦盛は「平敦盛は、平清盛の甥にあたる人物で、当時数え17歳の超絶美少年」と紹介されています。
残念ながら敦盛は壇ノ浦の合戦の前年、1184年の一ノ谷の合戦で戦死しています。その時に敦盛を捕えた源氏の熊谷直実は、我が子と同年輩で美少年の敦盛の顔を見て「首を取ることなどできない、助けてあげたい」と躊躇したが、敦盛に早く切れと言われ、泣く泣く首を落としたとのこと。その後、熊谷直実は弓矢取る身の空しさを自覚し仏門に入ったとの逸話が残っています。

平清盛の蝋人形

平敦盛の蝋人形

その周辺の民家にも、鎧や屏風、作業器具などが展示されており、当時の生活を偲ばせるものでした。

中央には大きな民家があり売店として運用されていました。近くには紫陽花の花も咲いておりました。

売店もある大きな民家

また、中には「隠れ忍んで八百年 今日この里甦る」と記載された石碑がありました。平家が滅亡した1185年の壇ノ浦の合戦のちょうど800年後の1985年にこの平家の里が開業していますから、このような石碑が置かれたと思います。

「隠れ忍んで八百年 今日この里甦る」と記載された石碑

平家の落人たちは、追手の源氏に見つからないようにひっそりと隠れ忍んで生活していたようです。しかし一時、落人の中に子供が生まれてめでたいということで鯉のぼりを上げたところ源氏の追手に見つかり大打撃を受け、この湯西川まで更に逃げ延びたとのこと。
それ以来この湯西川では源氏の追手に見つからないように「鯉のぼりを揚げない」「犬や鶏を飼わない」「焚き火をしない」「米のとぎ汁を川に流さない」などが堅く守られ、生活の形跡を残さない習慣がついたとのことで、現在でも鯉のぼりは揚げない習慣が残っているとのことです。

そのように苦労をして生き延びた平家の落人の子孫がこの付近には多くいるのだなと思うと、感慨深いものがありました。

(2024年8月15日)